第二章
表舞台に立たない
伝説の料理人
ゴーストシェフと呼ばれる、伝説の料理人がいる。
高校時代にバドミントン団体競技で日本一となるが、怪我が元で引退。その後、料理の道に進んだ男だ。
男は調理師学校卒業後、名門ホテルに最年少で入社して料理の基礎を学び、
イタリアでの単身修行を経て多くの大手飲食チェーンで中心的存在として腕をふるった。
一時期は三ツ星レストランのシェフや天皇の料理番としても活躍した彼は、その後独立し、
コンサルタントとして複数店の売上を飛躍的に向上させた手腕も持っていた。
現在は、自らの溢れ出るクリエイティビティを商品として完全再現するために設立した自社工場にて開発を行う傍ら、
多くの企業案件などに広く深く関わっている。
だが、彼はその名を表に出すことを好まず、
業界ではゴーストシェフ“unknown”と呼ばれ、その存在がまことしやかに語られるのみの、まさに伝説の料理人だった。
一方でタケムラダイは、自身の思い描く究極の冷凍カレーを完成させるにあたり、
最も大きな問題に突き当たっていた。
頭の中だけで構築したこのレシピを、一体誰が実現させるのか?
如何に完成されたレシピであったとしても、
それを再現できる料理人がいなければ世に出すことなどただの夢物語ではないのか?
タケムラは、自らの構想を再現できる料理人を探したが、その道は簡単なものではなかった。
なぜならば、彼の求めるものが実現困難なものであったからだ。
タケムラの求めるカレーは、究極の存在である必要があった。
誰もが美味しいと感じるカレーとはすなわち、矛盾の塊に他ならなかったのだ。
何をトッピングしても合うカレーであること……
つまり、トッピングの味を邪魔することになりかねない具材を廃すること。
主観的な要素である辛さを食べる人がそれぞれに調節できること……
つまり、カレーそのものが辛過ぎてはならないということ。
美味しいカレーを美味しくたらしめる要素、
それらを含まぬ上で、美味しいと思えるカレーを作らねばならない。
自らが導き出した禅問答のような課題が、タケムラを苦悩させた。
冷凍食品マイスターとしてだけではなく、自分のこれまで築き上げてきたすべての人脈をたどり、
このカレーを再現することのできる料理人を彼は探し続けた。
だが、何人、何十人とあたっても彼の提示する条件で作ることのできる人間はいなかった。
タケムラは途方に暮れた。
自分は、絵に描いた餅を求めているのか……?
そんなある日、彼は冷凍食品マイスターの活動の一環として、
美味しい冷凍食品を求め、とある店を訪れた。
そこは、様々な肉料理を冷凍食品として販売する、一軒の小さな店。
この店の冷凍ハンバーグが本当に美味しいとすこぶる評判になっていた。
ひとしきり気になる商品を購入し、
自宅に戻ってそれらを食したタケムラはあまりの美味しさに感嘆の声を上げた。
美味しい冷凍食品を多くの人々に紹介するのが、マイスターとしての彼の責務だ。
是非ともこの商品を紹介したい。
タケムラは早速、それらを製造するメーカーにコンタクトを取った。
「いや、ウチはそういうの興味無いんで……」
電話口に出た男はそう答えた。
タケムラは、どんなにそれらが美味しかったかを力説し、
なんとかこの美味しい冷食を紹介させてくれと懇願した。
「……なんで、そんなに冷凍食品に拘るんですか?」
それは些細な疑問であったに違いない。
タケムラは自分にとって、世の中にとって、どんなに冷食が素晴らしいものであるかを力説し、
勢い余って、これからの自分が目指そうとしている冷凍カレーへの思いをまでをも語った。
「冷凍カレーねえ……なんか、面白そうだな」
電話の向こうから思わぬ言葉が飛び出した。
それまでタケムラの話にさほどの興味を示さなかった男が、
冷凍カレーに興味を示したのだ。
それから数日後にタケムラは、とある場所に呼び出された。
タケムラの舌を唸らせた数々の肉料理を製造する工場だ。
そこで待っていたのが、かのゴーストシェフ“unknown”であった。
そう、電話口で応じたあの男こそが、伝説の料理人だったのだ。
彼は言った。
「具がなくて、辛くもなくて、それでいて途轍もなく美味いカレー……、
そんな矛盾に満ちた注文、面白すぎるでしょ」
タケムラのとんでもない条件が、伝説の料理人の心に火をつけたのである。
それから、様々な試行錯誤が繰り返された。
ゴーストシェフ“unknown”の真骨頂は、肉だ。
鶏、豚、牛……具は入れぬが、それらすべてのテイストは濃厚に含ませる。
使用するスパイスは、30種以上。
作りたてを温かいまま瞬間凍結すれば、
これらの香りも限りなく残すことができる。